
Ambassador 08
中田 裕二
YUJI NAKADA
シンガーソングライター
少しずつでも熊本に活気が戻ることを願っています。
そしてそのときは、僕らもまた歌でお手伝いできたらうれしいですね。
シンガーソングライターとして、また他アーティストへの楽曲提供やサウンドプロデュースなど、精力的に音楽活動を展開している中田裕二さん。2020年12月に同じく熊本出身のアーティスト、EXILE NESMITHさん、Leolaさんとともに熊本応援ソング「さるこうよ」をリリースしたり、熊本市内でチャリティー・ライブを開催するなど、地元に根差した活動も続けています。
そんな中田さんに熊本の魅力、「さるこうよ」に込めた思い、そして大好きな米焼酎について伺いました。
熊本といえばやっぱり球磨焼酎。
年齢を重ねるにつれて、どんどんその良さがわかってきた
中田さんはいつ頃まで熊本で過ごされていたのですか。
生まれも育ちも熊本市で、17歳まで住んでいました。もう遠い記憶なのですが、人吉にも子どもの頃に家族と訪れて、球磨川くだりとかしていたと思います。
「熊本」でまず思い浮かべるものは何ですか?
たくさんありますが、熊本といえばやっぱり球磨焼酎ですね。オヤジが大好きで、子どもの頃から「白岳」のボトルがいつもそばにあった記憶があります。僕も大好きで、今は「銀しろ」「金しろ」をよく飲んでいます。でも焼酎の味がわかるようになったのは、30代に入ってからですね。20代のときはハンバーグや焼き肉のようなパワフルなメニューを選んでいましたが、30代になると刺身や煮物などの和食がおいしく思えてくるじゃないですか。そういう料理に、球磨焼酎はすごく相性がいい。年齢を重ねるにつれて、どんどんその良さがわかってきたように思います。
どういうシチュエーションで飲まれるのでしょうか。
焼酎は盛り上がりたいときに飲むアッパーなお酒ではないと思うんですよね。なので、くつろぎたいときや、癒やされたいときに、一人で静かに飲みたくなります。ロックやソーダ割りもおいしいですし、ストレートで飲むのも好きです。つまみは最近、歳のせいもあるのか、梅干し一粒や佃煮で十分という心境になりつつあります(笑)。

「こんなに焼酎の話をしていいんですか?」と上機嫌の中田裕二さん。いつか人吉・球磨の焼酎蔵で弾き語りライブをしてみたいという夢も語ってくださいました。
気楽に聴いてもらえる、ほっこりできる歌にしようと
熊本の日常を歌にすることに
2020年12月には、熊本出身のEXILE NESMITHさん、シンガーソングライターのLeolaさんとともに、熊本応援ソング「さるこうよ」をリリースされました。このプロジェクトはどのようにスタートしたのですか。
NESMITHくんと知り合ったのは2019年のことです。彼がVJを務めている熊本の音楽番組「NES-FES.」をきっかけに出会って意気投合し、東京でも遊ぶようになりました。
そんなある日、NESMITHくんから電話がかかってきて。「熊本地震の復興の最中にあり、水害やコロナ禍にもみまわれている熊本を歌で元気にしたい」と。僕も常々、音楽で何かできないかと思っていたので、すぐOKしました。それで3人で「さるこうよ」という曲をつくることになったんです。
市電に乗って熊本の街をめぐるMVには、熊本の日常風景が映し出されています。
最初は、地震や水害の被災地のことを歌にしようという話もあったんですが、もっと気楽に聴いてもらえる、ほっこりできる歌にしようと、熊本の日常を歌にすることにしました。3人でゆかりの場所を出しあい、それを僕が詩と曲にまとめていきました。MVは、上通・下通アーケードや熊本城公園などでも撮影をしました。熊本を離れている熊本人の方にも、懐かしんでもらえるといいなと思ったんです。
曲のなかでは、熊本弁も効果的に使われていますね。
70年代のソウルミュージックみたいな雰囲気で、掛け合いのコーラスに熊本弁を入れようとひらめきまして。「どぎゃん」「こぎゃん」という熊本弁がリズミックで、これはいいなと思ったんです。
タイトルの「さるこうよ」も熊本弁です。これは「歩こうよ」という意味なのですか。
厳密に言うと少しニュアンスが違っていて、「ふらふら散歩する」「そのへんをほっつき歩く」という意味です。コロナが収束したら熊本に遊びに行って、いろんな場所を「さるいて」もらいたいという、未来への希望を込めたタイトルにしました。
僕もそうなんですが、熊本人っていい意味で楽観的なところがあるんですよ。「なんとかなるばい」っていう感じで、あんまりひとつのことに執着しない。そういう前向きな熊本人の気質も、曲の中で表現したいという思いもありました。
音楽活動を応援してもらえた環境が、
今の自分の音楽の自由さにつながっている
熊本時代の音楽体験について聞かせてください。
最初の濃厚な音楽体験は中学生のときでした。僕は、熊本城の近くにある中学校に通っていたんですが、そこの音楽の先生がとってもいい人で。僕がバンド活動をしているのを知り、朝だけ練習のために音楽室を貸してくれたんです。
担任の先生も、20代の女性だったんですがロックが大好きな方だったんですね。僕が反抗期で学校をサボりがちだったとき、家まで迎えに来てくれたんですが、その車の中にロックの名盤CDがたくさん積まれていて。スティングやポリスも、その先生に教えてもらいました。あの頃の、音楽活動を応援してもらえた環境が、今の自分の音楽の自由さにつながっているように思います。
ライブデビューも熊本だったのですか。
はい。ヤマハが主催していた「ティーンズミュージックフェスティバル」という、10代を対象にした音楽コンテストがあったんですね。それで当時通っていた上通の大谷楽器の方に「出てみない?」と誘われて。16歳の春に、今はなくなってしまった「ライブベースクルー」で、ピチピチの柄シャツを着てメイクをして、オリジナル曲を披露したのがライブハウスデビューになりました。
それまで僕は恥ずかしがり屋で、人と話すのも苦手だったんです。でもステージの上では堂々とふるまえて、知らない自分に出会えたような気がした。その体験をきっかけに、「もっとライブをやりたい」と思うようになったんです。

熊本の魅力を語り始めたら止まらなくなってしまった中田裕二さん。特に地元の和菓子へは並々ならぬ思いがあるようです。
熊本の文化を、東京に住んでいる僕らが、
紹介していけたらいいなと思っています
東日本大震災のすぐあとにチャリティーソング「ひかりのまち」を発表されたり、熊本でフリーライブをしたり、災害復興の支援活動にも関わってこられました。
本当にささやかなことしかできてないんですけどね。フリーライブは熊本地震が起きた翌月の2016年5月に、熊本パルコ前と友人の眼鏡屋さんのスペースでやらせていただきました。
音楽って不思議なもので、歌い手の思いがどれだけ聞き手に伝わるのかは、正直わからないところがあるんです。「いいライブができたな」と思った日にそんなにリアクションがなかったり、逆に「あんまりコンディションがよくなかったな」と思った日に「すごく感動しました」って言われたりする。だからフリーライブにたくさんお客さんが来てくれて、「力が湧きました」とか「ふさぎ込んでいたんですが、気持ちがラクになりました」と言ってもらえたときは、音楽の力って不思議だなと実感するとともに、この仕事をやっていてよかったと思いました。
熊本との関わりで、やってみたいことなどあればお聞かせください。
NESMITHくんたちともよく話しているんですが、まだ知られていない熊本の魅力って、たくさんあると思うんですね。熊本というと馬刺し、からし蓮根、熊本城、それにくまモンが有名ですが、それだけじゃない。焼酎や日本酒も新しい造り手が育っているし、和菓子もクオリティが高いし、熊本ならではの料理もいろいろあるんです。たとえば熊本では、めちゃめちゃ豚足を食べるんですよ。うちのおじいちゃんが上手で、よく焼いて出してくれたんですが、トースターやオーブンでこんがり焼いて、酢醤油や辛子をつけて食べると、本当においしくて……今めっちゃ、おなかが空いてきましたが(笑)。そういう熊本の文化を、東京に住んでいる僕らが、紹介していけたらいいなと思っています。
また熊本には、飲み屋文化にも奥深い世界があります。飲食店がたくさんあって、コロナになる前は、夜中でも街に人があふれていました。熊本人は本当に集まって飲むのが好きなので、今、以前と同じように楽しめないのは、とても辛いだろうなと思います。地震や水害、コロナ禍と大変な状況が続いていますが、少しずつでも熊本に活気が戻ることを願っています。そしてそのときは、僕らもまた歌でお手伝いできたらうれしいですね。
文:矢部智子
写真:江森康之
profile
中田 裕二(なかだゆうじ)
1981年生まれ、熊本県出身。2000年にロックバンド「椿屋四重奏」を結成、フロントマンおよびすべてのレパートリーのソングライターとして音楽キャリアをスタート。2011年のバンド解散直後からソロとしての活動を開始。2021年4月、自身のバースデーに開催した10周年記念スペシャルライブの模様を完全収録したライブ映像作品『YUJI NAKADA 10TH ANNIVERSARY SPECIAL LIVE “ALL THE TWILIGHT WANDERERS”』を8月25日(水)にリリース。また8月28日(土)東京キネマ倶楽部にて椿屋四重奏時代の楽曲だけにレパートリーを絞ったスペシャルライブ「YUJI NAKADA 10TH ANNIVERSARY SPECIAL LIVE vol.3 “中田裕二の椿屋探訪”」を開催する。
Ambassador 07

被災者にとって一番つらいのは「災害の事実が忘れられてしまうこと」。自分も忘れてはいけないし、多くの人に忘れてほしくないと感じました。
火の国サラマンダーズプロ野球選手
Ambassador 06

いつか起きる災害に備えるためには、天気に興味を持ち、楽しむことが重要だと考えています。
斉田 季実治気象予報士
Ambassador 05

復活した肥薩線とくま川鉄道に揺られて、球磨焼酎を飲みにまた訪れたいと思います。
六角 精児俳優
Ambassador 04

多くの人が現地を訪れるのが難しい今でも「意識し続ける」「気にかけ続ける」ということが大きな支援になる。
巻 誠一郎元プロサッカー選手
Ambassador 03

人吉・球磨の未来は「この町が好きだからなんとかしたい!」っていう人たちが作るのがいいと思うんです。
小倉 ヒラク発酵デザイナー
Ambassador 02

僕がロケに行くことがなにかの力になるかもしれない。一日も早く人吉のみなさんの明るい笑顔が見られたらと願っています。
中原 丈雄俳優
Ambassador 01

同じ痛みを理解できる人たちが人吉以外にもいる。そのことが次へ進む勇気のかけらになれば幸いです。
轟 悠宝塚歌劇団