人吉球磨地方復興支援プロジェクト

人吉球磨アンバサダーズ
インタビュー

人吉球磨アンバサダーズ インタビュー

轟悠

宝塚歌劇団

轟悠 宝塚歌劇団

Ambassador 01

轟悠

YŪ TODOROKI

宝塚歌劇団

同じ痛みを理解できる人たちが人吉以外にもいる。
そのことが次へ進む勇気のかけらになれば幸いです。

宝塚歌劇団専科で、特別顧問の轟悠さん。1985年3月の『愛あれば命は永遠に』で初舞台を踏み、数々の舞台に立たれてきた男役スターです。そんな轟さんは、熊本県人吉市ご出身。幼い頃から慣れ親しんできた人吉の魅力や、2020年7月の水害で被害に遭われた方々への思い、そしてご自身が輝き続けるための秘訣を伺いました。

人吉は賑わいがある一方で、人の手の入っていない自然も残っている。

轟さんは人吉市のご出身ですが、人吉・球磨の魅力はどのようなところでしょうか。

もう人吉よりも宝塚の方に長く住んでいるので、今振り返ればというお話になってしまいますが、たくさんの思い出があります。たとえば九日町というメイン通りで行われる夏祭り。大変賑わい、そこではいわゆる「六調子(音頭)」を踊るんですけど、人吉に住んでいる人の多くは踊れるんじゃないでしょうか。私は住んでいた当時、日本舞踊を習っていたこともあって思い出深いですね。

細い裏路地を入ったところにある、怪しげな居酒屋も面白いですね。女性一人ではなかなか行かないと思うのですが(笑)、異空間に迷い込んだような感覚に陥ります。

賑わいがある一方で、人の手の入っていない自然も残っていて。空気やお水が美味しくて、澄んでいる。球磨川くだりも好きでよくやっていました。自然の中で人が生きているという感覚が色濃くあったように思います。

好きな食べ物や方言はありますか?

方言だと、「どぎゃんかなる」。
自分が追い詰められたり、慌てていたりするときに、腰を据えて「どぎゃんかなる」という気持ちを持つようにしています。これは人吉にいたときに限らず、宝塚に入ってからでも。「どうにかしなきゃ」というよりは「どうにかなる。だからやろう」という気持ちで過ごしています。

食べ物で言うと、帰ったときにどうしても食べたくなるのは、つぼん汁。野菜や鶏肉が入った郷土料理で、家庭ごとに少しずつ作り方が違うんです。あとは人吉駅の栗めし。栗の形をしたお弁当箱に、栗ご飯が入っている駅弁です。音楽学校生の頃に、同室の同期に帰省のお土産として買って帰った記憶があります。それから、丸一さんというそば・うどん屋さん。優しくほっとする味なんです。同級生が頑張っているお店で、帰省した際はよく食べにいきますね。

球磨焼酎は飲まれますか?

はい(笑)。九州出身者というと、みなさん酒豪のイメージがあるみたいなのですが、私はそんなに強い方ではないです。同じお酒でも、焼酎は体にいいという話を聞いてから、人吉・球磨の焼酎を飲むようになりました。お湯割でいただくことが多いです。

小倉 ヒラク 発酵デザイナー

人吉駅の栗めしは観光客のみならず地元の方にも大人気。

球磨川

慎重に言葉を選びながら真摯に語る轟さんの姿からは、故郷への深い愛情を感じとることができました。

「人吉の人はお人好し」。何年かぶりに会っても、一昨日会ったかのような近さがあるんです。

今すぐにでも行ってみたくなりますね! ほかに魅力を感じているところはありますか?

何よりも人吉の魅力は、人。幼い頃から「人吉の人はお人好し」と聞かされてきましたが、本当に皆さん温かいんです。何年かぶりに会っても、一昨日会ったかのような近さがあるんです。それぞれがそれぞれの人生を歩みながらも、人との繋がりを一番大切にしている。包み込んでくれる風土が、やはり人吉にはあると思います。

2020年7月には人吉・球磨で水害が発生しました。ご実家も被害を受けられたということで、心を痛めてらっしゃると思うのですが、どんなお気持ちでしたか。

朝起きて、テレビをつけたら、上空からの映像が目に入りました。どこでこんな水害があったのだろうと思っていたら、熊本県人吉市と書いてあって。え、嘘でしょ、と青ざめました。川が氾濫して見慣れた光景が一変していましたが、知っているところは地形でわかるじゃないですか。ものすごくショックでした。自分のことなら、まだ強くなれるのですが、やっぱり故郷の姿が、そういう形で目に飛び込んでくると。

数日間は連絡を取れない人もいたので、家族や親戚だけでなく、町内の方々の安否も気になりました。実家は車もバイクも流され、家の中は泥だらけだと知りました。

本当は飛んで帰って、どうにか力になりたいと思ったのですが、このコロナ禍の状況もあって、家族から今は帰ってこないでくれと言われて。自分の無力さ、歯がゆさを感じました。

今、人吉・球磨は復興に向けて歩みを進めています。頑張っている方々へはどのような思いがおありですか。

いろいろと考えたのですが、適切な言葉が見つからないというのが、本音でして。そういうところが、やっぱり私は人吉の人間なんだなと思います。頑張っているに決まっているので、「頑張ろう」という言葉も違う。本当に思い浮かばなかったんです。私自身、阪神淡路大震災も経験していますし、水害の怖さも知っております。そのときに、なんていう言葉をかけられて、勇気づけられたかな、元気になったかなと思い返しても、そこに言葉はないんですね。心に寄り添って、同感して、背中を押して、道を歩けるように、気持ちの中でのお手伝いをするのが一番だと思うのですが、今回、残念ながらそれができなかった。でも、あの7月からずっと休みなく、暑い日も寒い日も踏ん張って生きていらっしゃる皆さんのことをずっと思っています。

現実はとても厳しいと思います。たとえばお店をやられている方がもともと自分の代で終わりにしようと思っていらしても、水害がきっかけで店を畳まざるを得なくなったケースもあると思います。それに未だに、床の梁の上に板を敷いて生活されている方もいらっしゃったり。どうか諦めずに奮い立っていただきたいという願いがありますし、同じ痛みを理解できる人たちが人吉以外にもいるということを知っていただき、皆さんが次へ進む勇気の一歩のかけらになれれば幸いです。

幼い頃、人吉は山の中の単なる田舎だと思っていましたが、大人になって振り返ると、故郷がこんなに美しいところでよかったと思うことばかりです。だからこそ、水害で被災された皆さんには、球磨川に対して憎しみを抱くのではなく、やっぱり好きという気持ちをもっていただきたいなとも思いますね。

球磨川

デビュー35年を迎えてなお精力的に舞台に立ち、輝き続ける轟さん。人吉・球磨の方々にとって、大きな励みとなっているはずです。

自分にできることを今やって、それが結果的に故郷の復興支援というかたちにつながればいいなと思っています。

ところで、轟さんが宝塚歌劇団を目指されたのは人吉にいらした頃ですよね。きっかけは何だったのですか?

そろそろ進路を決めなくてはいけない中学1年生ごろだったと思います。たまたまテレビを見た時に、大地真央さんがジェームス・ディーンを演じられた舞台『ディーン』が放送されていまして。宝塚のことはまったく知らなかったので、最初は外国の男の人だと思ったんです(笑)。なのにとてもきれいな日本語を話されていて、不思議と見入っている自分がいました。そして思ったことが、「私、ここに入る」。理屈ではなく、ここに入る、と。そのときは、まず宝塚音楽学校を受験しないと舞台に立てないこともまったく知らなかったのですが(笑)

初めて生の舞台を観たのは、音楽学校受験のときです。1次試験と2次試験の間が空きまして、当日券を買って、宝塚大劇場で観劇しました。周りは、お母さんがファンだったりで幼い時から劇場に通っている人も多いのですが、私の場合は本当に九州の南の、それも山の中で育ったもので、未知の世界でしたね。日本舞踊は幼い頃から続けていましたが、音楽学校の受験にあたって他に自信のあるものはなかったです。受験生の控え室の一番端の方で、じーっとして、皆さんが話しているいろいろなお国の言葉を興味津々で聞いているだけでした。

そして見事合格されて、音楽学校時代を過ごされたわけですが、人吉に帰りたいなあと思ったことはございましたか。

はい(笑)。
入学式の次の日のことです。旧宝塚ホテルの公衆電話から祖父に電話をかけて、「私、ここ辞める。無理」と言ったんです。人吉から出てきたばかりだから環境も変わり、言葉もよく分からなくて、当時の私にしたら厳しかったんです。きっと孤独を初めて感じたのでしょう。

そうしたら祖父が電話口で「そうか、分かった。でも、お前はまだ何も始めてないのに、そんな弱音を吐くのか」と励ましてくれたんです。もともと勝ち気な方だったというのもありますが、祖父のその一言で、もう絶対弱音は吐かない、逃げないぞと心に決めました。忘れもしません。その一言があったから、今の私があると思います。

そんなことがあったんですね。今年はデビュー35周年ということですが、今もなお輝き続けていられる原動力を教えてください。

まずは、好きなことを仕事にしているということですね。一つ一つの作品に、その時できる限りの思いと、精神力・体力すべてを使って表現してきたつもりです。でも、舞台が終わるといつも「もっとできたんじゃないか」「もっと足が上がったんじゃないか」「こんな風に歌った方が良かったんじゃないか」と思ってしまいます。下級生の頃から歌も踊りも心が必要だと教わってきたので、表現者として追求し続けることに終わりはないんです。

それから、仲間。今も下級生からいい刺激をもらえていますし、応援してくださるファンの皆さんや、仕事場にいらっしゃる皆さんもそうです。宝塚におりますといろいろなタイプの方にお会いするので、常に学ぶことがあります。ただの仕事としてではなく、プラスアルファがとても溢れている場所だから、飽くなき挑戦を続けることができたのではないかと。いろいろな方々に支えられて、今の私があるという風に、改めて感謝するしかないと思っております。

轟さんがステージに立たれることは、人吉の方々にとっても励みになるんじゃないでしょうか。

そう思っていただけるのであれば、そんな光栄なことありません。今頑張っていらっしゃる皆さんに比べたらまだまだですが、今自分にできることをやって、それが結果的に故郷の復興支援というかたちにつながればいいなと思っています。fin.

文:五月女菜穂
写真:後藤秀二

profile

轟悠(とどろき・ゆう)

8月11日熊本県人吉市生まれ。宝塚歌劇団専科。1985年、宝塚歌劇団に71期生として入団後、同年3月花組公演『愛あれば命は永遠に』で初舞台を踏む。1997年7月、雪組トップスターに就任。2000年『凱旋門』で文化庁芸術祭賞演劇部門優秀賞を受賞。2002年2月、専科へ異動。同年『風と共に去りぬ』で菊田一夫演劇賞を受賞。2003年6月、宝塚歌劇団理事に就任。2016年『For the people』で読売演劇大賞優秀女優賞を受賞。2020年7月、特別顧問に就任。2021年2月に同期の稔幸、愛華みれ、真琴つばさとともに「71st Special Show 『IV voice – テトラ ヴォイス』」に出演する。

Ambassador 06

斉田 季実治|気象予報士

いつか起きる災害に備えるためには、天気に興味を持ち、楽しむことが重要だと考えています。

斉田 季実治気象予報士

Ambassador 05

六角 精児|俳優

復活した肥薩線とくま川鉄道に揺られて、球磨焼酎を飲みにまた訪れたいと思います。

六角 精児俳優

Ambassador 04

巻 誠一郎|元プロサッカー選手

多くの人が現地を訪れるのが難しい今でも「意識し続ける」「気にかけ続ける」ということが大きな支援になる。

巻 誠一郎元プロサッカー選手

Ambassador 03

小倉 ヒラク|発酵デザイナー

人吉・球磨の未来は「この町が好きだからなんとかしたい!」っていう人たちが作るのがいいと思うんです。

小倉 ヒラク発酵デザイナー

Ambassador 02

中原 丈雄|俳優

僕がロケに行くことがなにかの力になるかもしれない。一日も早く人吉のみなさんの明るい笑顔が見られたらと願っています。

中原 丈雄俳優